松下幸之助の言葉

今から40年前、50年前に松下幸之助が語ったコーポレートガバナンスとスチュワードシップの考えが、今注目されています。昨年月刊誌『Voice』で松下幸之助の「株式の大衆化で新たな繁栄を」と題する文章が紹介されました。 同氏の『実践経営哲学』からの引用と併せて紹介します。

曰く、株式会社は、社長や重役のものではなく、 株主のものであると同時に、社会の「公器」でもある。 決算期ごとに株主総会で業績を報告し、業績が良いモノは 株主から称賛とねぎらいの言葉を頂戴する。 充分な成果が上がらなかった時には、 謹んでお叱りを被る。これが、本来の姿であり、 株主は経営者の御主人である事を決して忘れてはならない。 株主は短期的な売買姿勢をとらず、むしろ「主人公」として毅然とした態度を保つ事が大事である。 単に株式を保有して配当を受け取るだけでなく、株主としての権威、見識をもって 経営者を叱咤激励する事も望ましい。(BDTIによる要約。以下は各出典本文から引用。)

二十年後、三十年後の新しい日本においては、人々はみな自分の仕事から収入を得る一方で、株主となって配当を受けるというような状態がおそらく生まれてくるであろうし、また生み出さなければならないと思う―。

松下幸之助はいまから半世紀以上前、一九六七年十一月号の『PHP』において、株式が一部に偏在することを憂い、大衆化により国民全体で経済と社会の活性化を図ることの重要性を説いている。本稿はそれを再録、一部編集したものである。

株式の大衆化で新たな繁栄を

繁栄に貢献すべき株主 

今日、資本主義の国々では、何らかの事業を営む場合に、多数の人々から資本を集め、それを有効に活用するための株式会社という制度がある。

 わが国の場合も、この株式会社が数多くあって、産業界、経済界の中で重要な位置を占め、国家国民の繁栄、発展のために非常な貢献をしている。しかし、ここで忘れてならないのは、その株式会社は株主あってのものだということであろう。つまり、株式会社というものは、その会社の経営を行なっていくために必要な資金を出資する株主というものがなければ、そもそも存在しえないものなのである。

 そうしてみると、株式会社が健全にして安定した経営を行なっていくことが、国家国民の繁栄、発展のためには非常に重要であるが、それには、その前提として、株主もまた健全にして安定した姿でなければならないと思うのである。

 しからば、現在の日本においては、はたして株主はそのような健全にして安定した姿を保持しているだろうか。私は、そこに、いささかの疑念を抱いている。

 戦後のわが国では、終戦直後のいわゆる経済民主化政策によって、財閥が解体されるなど、“資本と経営の分離”が促進され、株式は一般国民大衆の手で所有されるということが多くなった。私は、それは資本主義の一歩進んだかたちとして非常に好ましい状態だと思っているのであるが、ただここのところに来て、世間一般になにかそういう大衆個人株主を軽視するような風潮が出てきているように思えてならない。現に最近では、そういう個人株主の持ち株比率が、ひところよりもかなり減りつつあるというのである。

 特に、このたびの資本の自由化に際しては、多くの会社がいわゆる株主の安定化ということで、株式を大衆個人の手から特定の法人のほうへ集めようとしているともいわれている。はたしてそれが、今後の日本の国家国民の安定、発展のために最善であるかどうか。現状としてはやむをえない面があり、またそれはそれなりの効果をあげるであろうが、しかし、こういう状態のままでは、資本が一部に偏在してしまうという姿が再びわが国に生まれてくるおそれもあるので、決して望ましいことではないと思う。私はこれは、資本主義の進歩している姿ではなく、むしろ退歩している姿だとも考えられると思うのである。

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天与の好機を逃がすな

そのように、人々がほんとうに喜びをもっていきいきと働くためには、お互い人間がもって生まれた欲望が自由に適正な範囲で満たされることがまず必要だと思う。その、人間としての自由が束縛され、あらかじめ決められた計画の枠の中でのみ仕事を行うというのでは、やはり能率は上がりにくいし、第一、人間としてのほんとうの喜びというものも生まれにくいと思うのである。能率を上げ、真の喜びを生むためには、何といっても、自発的にみずからの力と知恵で事を行うことが許され、また業績をあげて得られた利益がみずからに分配される、という社会の仕組みが必要であろう。

 そういう条件にかなう制度の一つが、株式会社であり、また株主というものだと思うのである。だから、社会的に見て株主の数が多くなるということは非常に望ましいことであって、極言すれば、国民のすべてがどこかの会社の株主であるというようなところまでもっていければ、これにこしたことはないと思うのである。

 幸いなことに、日本においては、戦後このかた、期せずしてそういう株式大衆化の姿が現われてきたのである。つまり、初めにも述べたように、戦後の日本においては、財閥の解体もあって、資本なり株式の大衆化が大いに進んだ。これは、考えてみれば、わが国経済界の安定、発展のため、ひいては国家国民の繁栄のためにまことに得がたい、いわば天与の機会であったといえよう。

 しかるに、そのせっかくの好ましい状態、姿というものを、政府をはじめ、経営者、あるいは株主がこれをさらによりよく生かすというよりも、むざむざ壊しつつあるというのが、最近の日本の姿ではないだろうか。その三者がいわば共同で、一度懐中に抱いた玉を惜しげもなく捨てようとしているというような感さえするのである。

 たとえば、先述のように、資本の自由化に対して株式を特定の法人に集めようとする傾向もあるようだし、また何といっても最近では、株をもっていてもあまり得にならず、かえって損になるというような傾向がしだいに出てきているのである。すなわち、企業の業績が悪くなったから減配するとか、無配にしてしまうということが、安易に、一方的に行われている例が少なくないようである。そのため、株をもっている人々は、時として大きな損害を受けている。つまり、安心して投資し、株をもつということができにくいような状態が生まれつつあるのである。

短く形式的な株主総会

これは、極端にいえば、今日のわが国に株主軽視の風潮があることが一つの原因だと思う。株式会社は決して社長や重役のものではなく、本来株主のものであるという意識が、実際にはまだまだ薄いように思うのである。早い話が、会社、株主にとって非常に大事な株主総会にしても、ごく短い時間で形式的にすませてしまう場合が多いようだ。

 そもそも株主総会というものは、経営者が決算期ごとに株主に会って会社の業績を報告し、それがよいものであれば株主から称賛とねぎらいの言葉を頂戴し、もし十分な成果があがらなかったときには、慎んでお叱りをこうむる、というのが本来の姿であろう。

 しかるに、現在の経営者の中には、いろいろの事情はあるにしても、自社の株主総会の所要時間の短さを自慢し、それが経営者としての一つの手腕であるというような考えをもつ人も少なくないようだ。これは株主軽視もはなはだしいと言わざるをえない。またそういうことでは、株主の意を体して真剣に経営に打ちこもうとする態度も生まれず、いきおい会社の発展を期待し、かつまたその発展を喜ぶ健全な株主を失望させ、株を手放していくという傾向を助長することになるだろう。

 実際、そのように株主を軽視する結果、今日では、まじめに会社に投資してその会社の発展を自分のこととして喜ぶというような株主は、非常に少なくなってきたように思われる。損をした株主は、株というものは怖いものだと考えるようになってきている。それで、もう株は買わない、株よりも他に投資したほうがよい、たとえば土地に投資したほうがよいということになってきている。今日は、土地の値段も上がる一方だというが、その一つの原因はこういうところにもひそんでいると思うのである。

 したがって、今日では株をもとうという場合は、初めにも述べたように、株価の上下変動の興味だけから、つまり競馬などと同じように、いわばばくち的な考えで株をもつ人が多くなってきたのではないだろうか。そういう人が非常に多くなってきたために、経営者としてはいっそう、株主というものを重要視せず、むしろこれを軽視するようになってきたように思うのである。つまり、経営者が株主の心を心とせず、これに報いることが少ないため、健全な株主は去り、株価の変動のみを対象にした不安定な株主だけが残る。そういう株主の姿を見て、経営者はよりいっそう株主を軽視するというわけである。考えてみると、これは、見すごすことのできない悪循環ではないだろうか。

 われわれは、この悪循環を早急に断ち切り、大衆が安心して、喜びをもって株に投資することのできるような姿を、新しい日本に力強く生み出していかなければならないと思う。

この悪循環を断つために

そこで、まず政府に望みたいことは、政府みずからが、株式の大衆化なり株主尊重の意義というものを正しく認識、評価することである。そして、その上に立ってすべての国民に株式をもつことを積極的に奨励、要望し、それを実現するための具体的な奨励策、優遇策というものを大いに打ち出すことが大事だと思う。

 たとえば、株をもつための融資をするとか、奨励金を出すとか、あるいは一定数以下の少数株の株主の場合は特に税金をタダにするとか、きめ細かい施策を、適宜講じていかなければならない。もちろん、そのように特に小株主を優遇する場合は、同じ人が他人の名義を使ってその優遇策の不当な恩恵に浴することを防ぐために、何らかの防止策が必要であることはいうまでもない。

 また、一度買った株をできるかぎり手放さないように、株主を指導していくことも大事であろう。こういうことを、政府は国家百年にわたる経済の基本政策の一つとして、力強く進めていかねばならないと思う。

 つぎに、経営者に望みたいことは、その基本の考え方においても実際の態度においても、株主は会社運営に必要な資金を出資してくれている、いわば自分たちのご主人であるということを、決して忘れてはならないということである。つまり、自分の主人である株主の利害に対しては、自分のこと以上に真剣にならなければいけないと思う。

 儲かったら増配し、儲からなければ減配するということは、原則的には認めるとしても、それを会社が一方的に決めてはならない。もちろん、現実の問題としては、そうせざるをえない場合も出てくると思うが、しかし、株主の心を心として考慮することを、あくまでも忘れてはならない。

 さらに、株主自身として反省すべきことは、株主本来の姿に立ち返るということだと思う。つまり、株主は、株に投資することによって国家の産業に参画し、その発展に寄与、奉仕するといういわば尊い使命をもっているのである。そして、その使命を全うすることによって正当な利益の配当を受けるわけである。株主は、こういう株主本来の使命というものを正しく自覚、認識して、原則としては、いわば永久投資するという考え方から株をもつことが大事だと思うのである。

 株価が上がれば売り、下がったら買うということは、一面確かに考えてもよいことであるかもしれないが、それはあくまでも必要やむをえざる場合に限るべきだといってもよい。今日では、それが投機の対象としてあまりに簡単に売り買いされているように思う。それが経営者をして株主を軽視させる一因になっているのである。しかし、もし株主が原則として永久投資というか、二代も三代も同じ会社の株をもち続けるというような確固たる信念をもっておれば、私は決して株主が軽視されるようなことはないと思うのである。

 そういう意味からも、株主は、みずから会社の主人公であるということを正しく自覚、認識していなければならない。そして経営者に対して言うべきは言い、要望すべきは要望するという、主人公としての態度を毅然として保つことが大事ではないかと思う。たとえ少数株しかもっていない株主であっても、単に株をもって配当を受け取るというだけでなく、会社の主人公たる株主としての権威、見識をもって会社の番頭である経営者を叱咤激励する、ということも大いに望ましいと思うのである。

 そのようにすれば、経営者としても経営によりいっそう真剣に取り組み、業績をあげ、利益をあげて、それを株主に十分還元しようという気持ちが強くなってくるのではないだろうか。

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『Voice』2018年8月号(PHP研究所発行)「株式の大衆化で新たな繁栄を」松下幸之助 より一部転載。

実践経営哲学: 使命を正しく認識すること   (昭和53年)

限りない生成発展ということが、自然の理法であり、社会の理法である。このことは、見方を変えていえば、お互い人間は、そうした限りない生成発展を願い求めているということである。

つまり衣食住をはじめとして、みずからの生活を物心ともに、より豊かで快適なものにしたいということを絶えず願っているのが、お互い人間の一般の姿である。その内容は人により時代によってさまざまであっても、よりよい生活を求めないという人はほとんどいないといっていい。

そのような人々の生活文化の維持、向上という願いにこたえ、それを満たしていくところに、事業経営の根本の役割というか使命があると考えられる。たとえば、人々が快適な家に住みたいと思っても、そうした住宅の生産供給がなくては、その望みはかなわない。さらには、そのための各種の資材の生産供給というものも必要になってくる。そうした生産供給の仕事を、お互いが事業経営を通じて行っているわけである。

住宅に限らず、あらゆる生活物資、さらにはサービスとか情報といった無形のものを含めて、人々の生活に役立つ品質のすぐれたものを次々と開発し、それを適正な価格で、過不足なく十分に供給するというところに、事業経営の、また企業の本来の使命がある。いいかえれば、そういうところに“企業はなぜ必要か”という企業の存在意義があるわけである。

供給する物資なりサービスの内容は業種によりさまざまであっても、そのように事業活動を通じて、人々の共同生活の向上に貢献するということはあらゆる企業に通ずるものである。この根本の使命を見忘れた事業経営は真に力強いものとはなり得ない。

一般に、企業の目的は利益の追求にあるとする見方がある。利益についての考え方は別のところで述べるが、確かに利益というものは、健全な事業活動を行なっていく上で欠かすことのできない大切なものである。

しかし、それ自体が究極の目的かというと、そうではない。根本は、その事業を通じて共同生活の向上をはかるというところにあるのであって、その根本の使命をよりよく遂行していく上で、利益というものが大切になってくるのであり、そこのところを取り違えてはならない。

そういう意味において、事業経営というものは本質的には私の事ではなく、公事であり、企業は社会の公器なのである。

もちろん、かたちの上というか法律的にはいわゆる私企業であり、なかには個人企業というものもある。けれども、その仕事なり事業の内容というものは、すべて社会につながっているのであり、公のものなのである。

だから、たとえ個人企業であろうと、その企業のあり方については、私の立場、私の都合で物事を考えてはいけない。常に、そのことが人々の共同生活にどのような影響を及ぼすか、プラスになるかマイナスになるかという観点から、ものを考え、判断しなくてはならない。

私自身は、自分の会社の活動が社会の人々にとってプラスになっているかどうかということを常に自問自答してきた。“この会社がなくなったら、社会に何らかのマイナスをもたらすだろうか。もし、何らのマイナスにならない、いいかえれば、会社の存在が社会のプラスにならないのであれば解散してしまったほうがいい。もちろん、従業員なり、会社に関係する人は困るだろうが、それは仕方がない。多数の人を擁する公の生産機関として社会に何らのプラスにもならないということは許されない”そのように自分でも考え、また折にふれそういうことを従業員にも訴えてきた。

実際そのとおりなのである。共同生活の向上に貢献するという使命をもった、社会の公器として事業経営を行なっている企業が、その活動から何らの成果も生み出さないということは許されない。そういう使命を現実に果たしていって、はじめてその企業の存在価値があるのである。

“企業の社会的責任”ということがいわれるが、その内容はその時々の社会情勢に応じて多岐にわたるとしても、基本の社会的責任というのは、どういう時代にあっても、この本来の事業を通じて共同生活の向上に貢献するということだといえよう。

こうした使命観というものを根底に、いっさいの事業活動が営まれることがきわめて大切なのである。

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『実践経営哲学』 (PHP研究所発行)「使命を正しく認識すること」松下幸之助 より一部転載。

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